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【インタビュー】国語教育の衰退を憂える
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国語学者・大野晋さんに聞く
国語学者、大野晋さんが慨(なげ)いている。今春、高校で本格的に始まった新学習指導要領に基づく国語教育のあり方についてだ。「読む」ことが軽視され、授業時間も考えられないほどに少ない。新学習指導要領とそれに基づく国語教科書を改めて検討した大野さんは「このままでは日本が消える」と言う。その思いを語ってもらった。【学芸部 有本忠浩】
◇総花的な指導要領
高校の新学習指導要領によれば、国語科には必修科目と選択科目を合わせて6科目が含まれる。ここで問題にしたいのは必修科目である。
生徒が共通に学ぶ必修科目は、「国語総合」(4単位)のコースと「国語表現1」(2単位)のコースと2本立てだ。念のために文部科学省の担当者に尋ねた。
担当者によれば、どちらか一方のコースを、3年間のうちに1年間だけ学習すればいいという。例えば「国語表現1」を取った場合、高校1年、2年、3年のどの学年でもいいから、1年間に週2時間の授業を受ければそれで高校での国語はおしまいでいい、という。
一体、これはどういうことなのか。先進国で、自国の言語教育を、高校で週2時間でよしとする国などあるだろうか。3年間で週4時間という国もありはしまい。
それでは、文部科学省は、高校の国語教育に対して、どのような方針を持っているのか。新学習指導要領の「国語科の目標」を見ると、次のような項目を掲げている。
(1)国語を適切に表現し的確に理解する能力を育成し、(2)伝え合う力を高めるとともに、(3)思考力を伸ばし心情を豊かにし、(4)言語感覚を磨き、(5)言語文化に対する関心を深め、(6)国語を尊重してその向上を図る態度を育てる、とある。
一体、これは何だ? 週2時間でそれができるのか。 「国語を適切に表現する」だけを取っても、大変な時間と努力を要する。現場の教師なら誰もがわかっている。それなのに、こんなに多くのお題目を総花的に並べ立てて、責任回避している。
◇致命的、「読む」軽視
では、新学習指導要領に基づく教科書はどうか。複数ある教科書から任意に選び、実際に読んでみた。ここでも驚かされることになった。
『国語表現1』(三省堂)の目次には、例えば次のような項目が並んでいる。「新聞に投書してみよう〜自分の意見を表現する」「聞き書きの世界〜身近な人の話を聞こう」「情報手帳で伝えよう、学校生活の知恵〜情報の収集・整理と伝達」。ここには「読む」項目が欠けている。
話を聞く、意見を言う、ものを書くというのはもちろん大切なことだ。しかし、これらの行為の根本を成すのは「読む」学習だ。
それが致命的に軽視されている。読むことで初めて考える力を身につけ、自分で推理していく力を養う。その過程があってこそ、伝えたいことが具体的な形に書ける。そこを素通りした国語教育など考えられない。基本のところで間違っている。
週4時間の「国語総合」の教科書、例えば『新編国語総合』(東京書籍)はどうか。確かに古文や漢文、現代小説、評論、詩歌などが幅広く集められている。その意味では「読む」学習は一応の形をとっている。
しかし、多くの作品を細切れ的に載せている。三浦哲郎「とんかつ」、志賀直哉「清兵衛と瓢箪」など短編しかない。これでは読書の力は育たない。作品数は少なくてもいい。もっと長いものを、教師と生徒が全力をかけて、読み合うことが必要なのだ。
◇教師が全人格で
私は戦後間もないころ、神奈川県内の私立女子高で1、2年生の国語の授業を受け持った。教科書は使わず夏目漱石の『こころ』などを教材にした。
毎週、登場人物の心の動きをリポートさせ、翌週には朱を入れて返した。そんな生徒とのえんえんとしたやり取りを続けた。私は感性の新鮮な彼女たちに、人間というものは、お金と恋愛がからむと、人を裏切るなどと人間そのものを教えなければ、と思った。今はそれを懐かしく思い出す。
国語教育には、国語教師が生徒に自らを投げ出す覚悟が必要なものだ。それは今も昔も変わらない。私は自分の日本語の全財産を投げ出して、女子高生たちと『こころ』や『ビルマの竪琴』『出家とその弟子』『万葉集』『与謝野晶子集』などを読んだ。
読む力とは生きる力のことだ。指導要領に「生きる力」という言葉が頻出していて閉口したが、生きる力をもっとも確かに身につける学習とは、読む力を高めることだ。
読む力の衰えは、すなわち日本人の国語力の低下である。それは、理数系の解析能力にも深刻な、そして決定的な悪影響を及ぼすだろう。
歴史的に見るなら、国語力の衰退は、民族の運命も左右する。今こそ、読む力をとにかくがむしゃらにでも身につける国語教育をすべきだと提言したい。
◇おおの・すすむ 1919年東京生まれ。学習院大名誉教授。著書に『日本語の形成』『日本語練習帳』『日本語の起源 新版』など。
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